どうも皆さま金剛でございます。開口一番でいきなりすみません。以下の時系列を並べますのでちょっと眺めてください。
吊床係起床 5:00
総員起こし 5;15
朝礼体操 5:30
掃除始め 5;40
掃除止め 6:00
朝食 6:15
温習始め 6:55
温習止め 7:30
課業整列 7:40
課業始め7:50
止業 11:40
昼食 12:00
課業整列 13:00
課業始め13:10
止業 16:10
洗濯物干し 16:30
夕食 16:45
温習始め 18:15
温習止め 19:15
温習始め19:30
温習止め20:30
巡検用意21:00
巡検 21:15
消灯 21:30
これ一体何の時系列だと思いますか?実はこれ1943年時の三重航空隊予科練の一日の教育訓練の流れだそうです。ほんと分刻みの詰め込み教育ですよね。
現代だといろいろ言われそうな…
今回、紹介するのは、関西地方でレアメタルリサイクルを行う「富士興産」の会長であり、現在94歳で今なお活躍する、小川金治郎氏の自伝書「これが私の人生~金ちゃん突入蛇行90年」を紹介します。
この本は、販売していないという事なので、今回いくつかに分けて詳しく書かせていただきたいと思います。
当時エリートだった「飛行予科訓練生」
小川氏は、第二次大戦中、16歳で予科練(飛行予科練習生)に合格し、三重海軍航空隊に入隊したあと、台湾沖航空戦や終戦後の日本への引き上げなど、歴史のその場にいた、まさに時代の生き証人として、現在も元気に自身が築きあげた会社の会長として活躍中です。
同氏は、1927年1月15日、新潟県長岡市で農家の子として生まれます。この長岡という町。そう、小川氏は、後の連合艦隊司令長官、山本五十六長官の同郷という事になります。また、著書で、自身が「源氏
の流れをくむ血筋という事も紹介されています。
小川氏は、青年学校卒業後、1943年12月に「海軍乙種(特)第五期飛行予科練習生」として、三重の海軍航空隊に入隊。海軍二等飛行兵を拝命されます。
ちなみに「飛行予科訓練生」現在に例えると、民間の航空会社に例えてしまいますが、「パイロット訓練生」(社内、関連会社ではパイ訓とよばれていました。)に当たるのかな、と思われます。
彼らは、ほんの一握りの人間しか選ばれません。私自身も元航空関係者(地上支援スタッフ)でありましたが、実は私の当時の先輩で、非常に優秀な方がいました。
元々パイロットを目指しており、英語も堪能で、カナダに留学経験もありましたが、結局訓練生に選ばれず、関連会社の私が所属した会社に就職したと聞いておりました。
つまり、今も昔も「空を飛ぶ」パイロットは、憧れの存在であり、同時に優秀で、時にスタートラインに立つための「運」も必要な職だという事ですね。
話がそれましたが、小川氏は、2回の試験(学力、身体検査、適性検査、口頭質問)を突破し狭き門である予科練になります。この時若干16歳…現在で例えるなら高校1年生と同じ年で、軍人になっていました。
これは、本に書いてないことでありますが、以前小川氏とお話しをさせていただく機会があり、この時も既に70年以上の前のことを非常に鮮明に覚えておりました。
小川氏の話によると、当時40
人居た、三重の予科練の内、航空機の搭乗員になれたのは、その中の約1割の4万人だったそうで、
この話を聞いて、航空機の搭乗員になれるのがいかに狭き門かわかります。
そして、その4万人のうちの4000人の予科練生が特攻隊で散ったといいます。
三重航空隊での予科練になった小川氏は、そこで5か月の教育、訓練を行う事になります。
冒頭で、分刻みの予科練の教育訓練の流れをご紹介しましたが、予科練の教育は、大きく2つに分けられるといいます。
「訓育」と「学術」です。
訓育は「精神教育」「しつけ教育」「勤務」(諸教練、諸点検など)「体育」
学術は、「普通学」と「兵学」です。
小川氏とその同期達は、この濃密で、今では考えられないくらいの詰め込み教育によって、航空機搭乗員になる為の日々を過ごすことになります。
続く
(文:金剛たけし)
金剛たけし:グローバル総合資源メディアサイト「IRUNIVERSE」記者。同サイトで、「資源戦史シリーズ」「Air Plane Worldシリーズ」など、資源と歴史、航空機(旅客機中心)の関連の執筆を行う。その他、アニメ紹介サイト「あにぶ」コラム内で、アニメと歴史関連記事を執筆。