金剛たけしが軍事関連書をザックリ解説します③台湾沖航空戦、日本引き上げを経験した富士興産会長、小川金治郎氏「これが私の人生~金ちゃん穿入蛇行90年」その②

こうして、飛行予科訓練生となった小川氏でしたが、当時の予科練についても、この書では非常に詳しく書かれています。

当時予科練の訓練施設では最大の場所だったのは土浦でしたが、1942年のミッドウェー海戦の敗北で多くのベテランパイロットを失った海軍では、パイロットの養成が急務でした。

特に、この戦いで出撃したのは、空母「赤城」「加賀」に陣取った日本海軍のエース部隊「第一航空戦隊」(通称一航戦)と同じく空母「飛龍」「蒼龍」に陣取った、「第二航空戦隊」(二航戦)で、結果、この4隻すべての空母が撃沈されるという、日本海軍始まって以来の大敗北となり、ここまで日本海軍の快進撃を支えてきたエース部隊がほぼ全滅という、海軍の危機にありました。

その為、予科練生の訓練施設を増やすといった対策が取られていたことを、小川氏は著書で語っています。

その中には、小川氏のいた三重、そのほかには、三沢、清水、美保、松山、鹿児島など、18か所に上るといいます。

ここで、日本海軍が抱えていた課題とその装備にまつわる話を書きます。

旧海軍の主力戦闘機であった、「零式艦上戦闘機」通称「零戦」で有名なこの機体は、運動性を上げるために非常に軽く作られており、いわば「軽快だが撃たれ弱い」機体であり、軽いので航続距離が長いという特徴を持っていました。それゆえパイロットの戦死率が高く、以前私が土浦の予科練記念館に行ったときに当時のゼロ戦パイロットの手記を読んだことがありましたが、そこには

「25歳になるパイロットは、親父扱いになる。つまりそれほど飛行機乗りの戦死率が高かった。」

と書かれていたのを覚えています。

つまり、ゼロ戦の強さは、運動性にあり、それはつまりパイロットの腕にかかっているとも言えます。

(靖国神社、遊就館前にある、零式艦上戦闘機52型。非常に優秀な機体であった同機は、これを打倒すべく米海軍の航空機開発を急がせるきっかけとなった。 撮影2016年頃。)

そのパイロットが熟練であれば戦闘力は上がりますし、逆に未熟であれば、その戦闘機の性能を生かすことはできません。

熟練パイロットは、実戦のみで誕生するものですし、また空を飛べるまでには、多くの知識と訓練が必要です。

これは、現在で言う、民間の航空会社でも言えます。パイロットの育成に「億」という金が動くと言われていましたし、また、熟練度は実戦、つまり、客を乗せた有償でのフライトで実戦を経験し、それから一人前のパイロット、最初は副操縦士、そして機長、と段階を踏みます。

しかし、何事もそうですが、実戦を経験してこそ、一人前の戦闘機乗りですが、当然、パイロットとして未熟のまま「戦死」という結果もあります。

少し話がそれますが、話を空から陸に変えます。

第二次大戦中、ドイツ陸軍では、「戦車エース」という存在が幾人も存在しました。これは、当時ドイツがプロパガンダを重視し、戦場での記録を付けていたこともありますが、ドイツ陸軍の戦車隊では、ティーガーⅠを筆頭に、パンター、ティーガーⅡと、重装甲で乗員の生存率が高かった戦車も多く、対戦車自走砲の部類でも、敵の射程外から撃破するアウトレンジが容易で、駆逐戦車でも、攻撃力はもちろん、一定の装甲厚もあったため、やはり乗員の生存性が高かったように思えます。

これは、宮崎駿監督が、2015年に92歳で他界された「最後のティーガーエース」である、「オットー・カリウス」の戦いを描いた漫画「泥まみれの虎」でも、語られており、特別な任務が無ければ、カリウス氏は部下に戦車の外には出ないように指示していたそうです。これは敵軍の狙撃兵の的になることや、爆撃などで熟練の搭乗員を失わないためであったといいます。

戦車でも航空機でも「熟練の搭乗員」は、いかに重宝されていたかが分かります。

(世界で最も有名と言われるドイツ陸軍戦車隊の代名詞となった、「6号戦車ティーガーⅠ」非常に打たれ強く、乗員の生存性も高かったと言われている。撮影:ドイツムンスター戦車博物館、2017年)

話を航空機に戻しますが、当時の海外の航空兵器では、少なくとも日本よりは乗員の生存性を重視していたと感じます。

アメリカの戦闘機はかなり頑丈にできていたといわれていますが、特に頑丈だったという点であれば、代表例で言えば、ソ連軍の攻撃機、イリューシン「シュトル・モヴィク」ではないでしょうか。

この攻撃機は、ドイツ戦車隊から「ペスト」と恐れられた攻撃機で、大口径機関砲とロケット弾という大火力を有し、ドイツ戦車隊に襲い掛かった攻撃機でしたが、その特徴は攻撃面の他に、防御面でも際立っています。この機体、実は操縦席下部が「バスタブ」と呼ばれた装甲板で覆われており、地上からの対空砲火からパイロットを守ったと言われています。また機体も頑丈だったと言われており、このように当時の海外の航空兵器を見ると、人命を第一に考えているようにも思われ、対して日本は、結果的に人的枯渇が要因で、その後の戦いにおいて、パイロット不足による、航空隊の弱体化が言われるようになります。

(ソ連軍の代表的な攻撃機。IL-シュトル・モヴィク。写真は2M3型。詳しい方の話によると、パイロット席は全周防御に特化していたが、後部の銃手には、ほとんど防御する装備が無く、パイロットの数倍の戦死率だったそうです。その後部に座った銃手は、いわゆる「懲罰」の兵士が担い手だったそうです。撮影2017年ポーランド軍事博物館。)

そして、著書の中で、小川氏は、この予科練での訓練生の訓練自体が、このパイロットの枯渇という理由で相当の削減、簡略化が行われていたと記されています。

そして、その後小川氏は、三重航空隊の予科練教程を修了し、海軍飛行練習生として、台湾高雄航空隊へ入隊します。

続く

(文:金剛たけし)

金剛たけし:グローバル総合資源メディアサイト「IRUNIVERSE」記者。同サイトで、「資源戦史シリーズ」「Air Plane Worldシリーズ」など、資源と歴史、航空機(旅客機中心)の関連の執筆を行う。その他、アニメ紹介サイト「あにぶ」コラム内で、アニメと歴史関連記事を執筆。

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