こうして、三重での海軍予科訓練生としての課程を修了した小川氏は。台湾高雄航空隊へ、飛行練習生として転属します。
その折、小川氏は「台湾沖航空戦」の最中に身を置くことになります。
台湾沖航空戦は、1944年に起きた戦いで、後世では、いわゆる「世紀の大誤報」として語られていますが、この戦いはいわゆる「捷号作戦」の最中に起きた航空戦です。
捷号作戦は、日本が、マリアナ沖海戦で敗北した後、サイパン島陥落と続き、これにより、米軍の長距離爆撃機「B-29」の日本本土への空襲を許してしまう事になり、いわゆる「絶対国防圏」を米軍に突破されたことに対し、フィリピン、台湾、本土の各基地航空隊を用いて、米機動艦隊を迎撃することを主眼に置いた作戦です。
小川氏のいた、台湾高雄航空隊も、その最前線の位置づけでした。
同書籍によると、この作戦は「T作戦」と呼ばれ、このTとはつまり台風を利用して(!)米機動艦隊の空母10隻を撃沈することを目指した(!)作戦だったとあります。なかなか驚きの内容でしたが、先ほどもお話ししたように、「世紀の大誤報」という事は、つまりそういう事です。
その日本の大本営が発表した戦果というのが、空母19隻撃沈、戦艦4隻撃沈巡洋艦などその他艦船22隻撃破または撃沈…
いやいや、いくら何でも盛りすぎやろ…と思われるかもしれませんが、実際に発表した内容だったそうです。
しかし現実には、巡洋艦4隻大破、空母2隻、軽巡2隻小破、75機航空機撃墜、撃沈は0だったそうです…いや、この時期の日本軍であれば、健闘はした方であると思えますが、さすがに空母19隻撃沈の誤報インパクトが強かったという感じでしょう。
ちなみに、日本軍側の損害は、312機で、かなりの損害になります。
著書の中で小川氏は、独自の見解を持って解説していますが、そもそも、この作戦には、日本司令部の「空想」も混じっていたようです。どのようなものかというと、まずそもそも、都合よく台風が発生することを前提としていたとし、その影響で、米機動部隊は、戦闘機を発進させない、と言った条件が前提となっていたそうで、なかなか前提の難易度が高い作戦でした。
そして実際作戦決行になると、そもそも米軍は非常に優秀なレーダーを装備していた時点で、大戦中、陸でも海でも戦いを有利に進めていたことは有名ですが、それに加えて、「VT信管」を利用していた砲弾を装備し、これにより、高射砲から放たれた砲弾が、敵機に当たらずとも、近くを通過しただけで爆発する日本軍機にとっては厄介な兵器を投入し、また日本海軍でも、既に熟練パイロットを多く失っている状態で経験が浅いパイロットを次々投入した影響で、さらに被害が拡大したと、本書に書かれています。
結果、上層部が未帰還機の多さに現実を直視ができず、世紀の大誤報に繋がったと、小川氏は解説しています。
そして、当時台湾高雄航空隊にいた小川氏は、その台湾沖航空戦のもう一つの現場にいました。
10月12日、午前8時高雄飛行場にいた小川氏他、航空隊は、米グラマン戦闘機の機銃掃射を受け、小川氏を初め、航空隊の面々は地上から7.7mm対空機銃で応戦しながらも、防空壕へ逃げ込みましたが、その後、ロッキードP-38戦闘機の投下した爆弾によって、いくつの防空壕が吹き飛ばされたといいます。当時のこの航空隊の防空壕は、一つに2,3人ほどしか入れず、多くは、近くにあった畑や川に逃げ込んでいたといいます。
そしてこの空襲から、小川氏他練習生たちは、その夜からサトウキビ畑で寝起きするようになるといいます。兵舎にいると米軍機からの空襲の股になるというのが理由でした。
このころ、大本営からの「大誤報」を聞いており、小川氏はこの時の状況を、「戦場にいると、本当に勝っているのかわからなくなる。」と書き記しています。
そして、この戦いの後、小川氏は台湾高雄航空隊を卒業し、千葉にある木更津海軍航空隊の攻撃709航空隊の配属となり、海軍二等飛行兵曹に任命されます。当時の海軍では、二等兵層から「下士官」の立ち位置となり、小川氏はこの時自身を、職業軍人という名の国家公務員となったと話しています。
続く
文:金剛たけし
金剛たけしが軍事関連書をザックリ解説します③台湾沖航空戦、日本引き上げを経験した富士興産会長、小川金治郎氏「これが私の人生~金ちゃん穿入蛇行90年」その②